禅とは・・『禅とはおれだ』

 都城禅友会の静座会 みやさき市民座禅会 で伊藤探弦老師の著書をよみながら、先ず禅について

 知ることから始まました。2021年1月から始めましたので、紹介します。

『禅とはおれだ。』 伊藤探弦老師著

はじめに一言

 

 この小著は、禅によって心の安らぎを求め、一生を楽しく、幸福に生き抜いていきたいと願うかたがたのために、忠実なる道しるべの役を勤めたいと願って書いてみました。

 ほんとうの禅を、ほんとうに身につけたいと希望するかたがたのために、ほんとうの道案内をしたいと思って書いたのであります。

 更に言い換えますならば、真実なる禅を、真実に体得したいかたがたのために、真実なる道案内をしようとするのであります。

 

 何の幸いか、この私自身は、二十歳代の初頭から、真実なる禅に触れることができたのであります。真実なる師家に就いて、真実なる禅を修め、真実なる禅を継ぐことができたのであります。これはまことにありがたいことでありました。

 出生当時、早生の未熟児であり、幼少時代に虚弱児であった私が、九十歳近くになった今日、心身二つながら健やかに、私に与えられた人間の勤めに精進していることのできるのは、全く禅の賜物であります。

 今後、果たして、天が幾年の寿命をかしてくださるかわかりかねますが、命の有らん限りは、禅の一本道を、ひたむきに、歩んで行きたいと念じております。

 

 禅によって、心の安らぎを求めようとするには、実地に禅を修めることが肝要であります。禅の書物を読んだり、禅の話を聞いたりすることによって、禅を手に入れようとおしても、それは到底できることではありません。禅というものは、実際に坐禅をし、実際に参禅し、実地に実修することによってのみ体得できるのです。

 

禅書を読んだり、禅話を聞いたりして、それによって禅に入ろうとするのは、それはいわゆる魚を求めて木に登るものであります。いかほど優秀な釣り道具を持参しても、富士山に登ったのでは、雑漁一匹つれるものではありません。禅という大魚を釣り上げるには、坐禅と参禅とを実地に実修する以外に途はないのであります。

 禅書や禅話によって得られるものは、禅に関する知識だけのものであって、禅ではないのであります。たとい、古今東西の禅書を読み尽くし、大蔵経を暗記してみたところで、それは、禅に関する知識を、外から仕入れたに過ぎないのであります。禅に関する「物知り」であって、精々「論語読みの論語知らず」の域に止まるものであります。

 われらは、「物知り」になりたいのではありません。われらは、安らかに、幸福に、たくましく、わが世を生き抜いていく「力」そのものが欲しいのであります。この一点について、忠実なる道しるべの役を勤めようとするのが、この小著の念願であります。

 この本は、誰が読んでもわかるようにと気を付けて書きました。したがって言葉づかいは平易にと努力しました。現在、世上に出ている禅書をみますと、その大部分が、ずいぶんむずかしい本になっています。教科書でいうなら、高校生用か大学生用というかっこうであります。この本は義務教育を修めた人たちには、たやすく受け入れられるようにと心を配ったつもりです。

 

 それからまた、この本では、自称の代名詞に「おれ」という言葉をつかいました。この「おれ」という言葉は、私というよりも、身近で、しかも、しっくりと親しみを感ずるからであります。「私」と言った場合と「おれ」と言った場合の感じの差を、衣服に例をとりますと、「私」は外出着で、「おれ」はふだん着の相違があります。

 

禅は、しっくりと自分にくっついていなければならぬものでありますから、「私は云々」と言ったより「おれは云々」と言ったほうが、はるかに自己自身に密着してまいります。このゆえに、この本の中には、ことさら「おれ」という言葉を遣ったのであります。

 「おれ」という言葉は、現在一般社会では、「私」という言葉より低劣な俗語のように考えられているのが実情であります。「私」という言葉は、だれが、いつ、どこで遣っても差し支えありませんが、「おれ」のほうは、あいてが同輩か同輩よりも目下の場合のみ限って遣われております。それで、「おれ」で押し通せば、何となく、高邁とか無礼とかいう感じを伴い易いのでありますが、辞書をしらべてみますと、古い時代の文章の中にも使われています。現在一般に考えられているように、低俗卑劣の言葉ではなかったようであります。

 

 (みやざき市民座禅会 の1月の読み物から)

 

禅とはおれだ

 

禅とは何ぞや。禅とは一体どんなものでしょうかと尋ねられたら、おれは「禅とはおれだ」と答えたいと思っています。

身長1メートル60センチ弱、体重40キログラムのこの肉体、昔流に言えば五尺二寸余り、11貫そこそこの、このこじんまりしたこのおれの肉体が、このまま禅の本体であるのであります。

 

禅とは何だ。禅とはおれだ。これが最も適切、最も明確な答えであると信じています。

禅とはおれだ。おれを外して禅はない。もしこのおれより外に禅があるというならば、それは禅の影かまぼろしでありましょう。影やまぼろしは、つかみ取ろうとしても、つかみ取れるものではありません。おれたちは影やまぼろしには用はない。

 

禅そのもの、禅の実体をつかみ取りたいのであります。禅の実体を実際につかみ取りたいのであります。

 

禅の実体を実際につかみ取ろうと願う者は、このおれの実体を実際につかみ取りさえすればそれでいいのです。このおれの実体をつかみ取ることが、それが禅なのであります・

 

禅とはおれだ。おれがおれの力でのびてゆく。おれがおれの力で完全に成長する。それが禅であります。

おれがおれの力でおれの一生を働き抜いてゆく。それが禅なのであります。おれがおれの力で、できるだけ人さまのために、できるだけ世間のためになるように生活する。それが禅であります。

 

すこし仏教臭い言葉でいうならば、おれがおれ自身の一生を通して、上求(じょうぐ)菩提(ぼだい)下化(げけ)衆生(しゅじょう)とに精通する。それが禅であります。(かみ)、上求菩提に徹することによって、おれを極限にまで成熟充実させ、(しも)、下化衆生に徹することによって、世間のお役に立つ活動を続け、人間として生きがいのあるおれの人生を創造してゆくことができるのであります。

 

重ねて言おう。禅とは何だ、禅とはおれだ。

 

さてしからば、おれたちは、どうしておれをつかみ取るか。しばらくこのおれというものに焦点を当てて、おれというものの本体を突き止めてみよう。

(以上は、みやざき市民座禅会 3月の読み物)