禅とは・・

 

禅 と は・・

  私が二十歳前に入門を許され師事しました、耕雲庵英山老師が、解りやすく禅について述べている文章ありますので、以下紹介いたします。(諦観)

 

写真は耕雲庵英山老師 (1893~1979)

修行の実際的効果

 

禅の修行の実際的な効果をわかり易くいうならば、

それは、

自分の心を自分で自由自在に

使い得る事にあると言えましょう。

 

こう申すと、

すこぶる簡単のように思われますが、  

実際は、これが一番むずかしいことです。  

 

 

たとえば、何かやろうと決心したとします。 

自分で自分の心を決したのですから、

何事もそのとおりにやれそうなものですが、

実際は、決してそんな容易なものではありません。

 

また、こういうことはやめよう、決心したのなら、

これも、自分で自分の心に言い聞かせたのだから、

すぐにでも止められそうなものですが、

どうしてどうして、

なかなか思うように止められるものではありません

 

 


し、自分の心が自分の思うように

使いこなせるならば、

「われ言うが如く行ない、行なうが如く言う」

と顔を真直ぐに挙げて断言もできましょう、

    

また、

「己の欲せざるところ、他にほどこすなかれ」と

誰にはばかることなく言い切れましょう。



そして、それが実行できたなら、

それはもう聖人、仏陀の境涯であるとさえ言えます。

 

 

 「嘘をついては いけない」、

 「ひとに迷惑をかけては いけない」は、

人間形成の初一歩です。

 

しかるに、これだけのことでも

家庭内の躾として

社会人の教養として、

身につけるのは容易なことではありません。

 

 

れわれは、まず自分の心を 

自由に使うということを修行の

第一の目標としております。

   

 

 心とはいかなるものか

 

さて、自分の心を

自由に使いこなそうとするならば、

まず、

心とはどんなものであるか

見極めねばなりません。

これは自明の理です。

 

 

自分の心を把握もしないで、

自分の心を自由に駆使しょうとするのは、

ちょうど、騎手が馬なくして馬を自由に

駆使しようとするのと同様で、

これはもとよりできない相談です

 


しかるに、世の中には、

心を修めるとか、心を浄めるとか、

心を磨くとか、

心を安んずるとか 言いながら、

案外、この自明の理を忘れている者が

多いのではないでしょうか。

 

馬なくして、調御の術を説明するとか、

馬の特性を研究するとかも、

準備としては結構でしょうが、

いささか本末顛倒の嫌いなきにしもあらずで、

要は、まず馬を手に入れることでしょう。

 


心の修養を唱え、心の安心を説く前に、

心をつかまえるのが

先決問題ではないでしょうか。

                               

まして況や、

心を自由に使うという段になれば、

ぜひともその心を

 しっかり把握せねばなりません。

 

ところが、心とはいかなるものか、

と尋ねてみると、

自分の心でありながら、

さてとなると、

なかなか掴めないものです。

 

「心とは いかなるものと ひと問はば、墨絵にかきし 松風の音」。

有るといえば有るような、

無いと言えば無いような。

「移りゆく 初めも果ても しら雲の、あやしきものは 心なりけり」

 

 

どうも心というものは厄介な代物です。

しかし、それは、

心を相対的に把握しょうとするからの話で、

やりようによっては、

そんなに困難なことではありません。

 

 

 心を把握するには


では、どうしたら心を把握することが

できましょうか

禅ではそれを、悟りを開くとか、

道眼(どうげん)を開くとか、

見性(けんしょう)するとか申しております。

 

 

見性は、禅の修行の初めであり、

かつ、終りであるのですから、

説明を加えさせていただきます。

 

それには、まず(せい)の

 区別をハッキリ

させておくことが大切です。

 

 

普通、おおざっぱに心、心といっていますが、

 譬えてみれば、

それは水の上に立った波のようなものです。

 

ですから、憎い可愛い惜しい欲しいと、

働かせているいわゆる心を、

水の上に立った波とするなら、

波の基(もと)たる水に相当する

心の基になるものがなくてはなりません。

 

 

それを、仏教では性と名づけておるのです。

 即ち性は基で、心は現象です。

                                                       

われわれはそれを、

たんに性と呼ばずに、

本心本性という意味を含ませて

心性(しんしょう)と呼んでいるのです。 

 

 ですから、見性とは心性を見るというわけです。

ときには、仏性(ぶっしょう)を見ると言い、

又は 法性(ほっしょう)を見る、と

いってもよいでしょう。


 
さて、心を把握しょうとするならば、

その基である性を把握するのが

近道でもあり、

確実ということがわかりましたが、

実際にはどうすればよいか。 



千波万波、大浪小波を静めれば、

水の本当の相がわかるように、                  

喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲

というような

差別の念慮を納めてしまえば、

性を見ることができます。

 

そのために静坐工夫をするのです。 

 

つまり、

これは思慮や分別や道理では

決して解決できません。

 

即ち智ではどうしょうもない問題です。

これを工夫三昧になり

慧によって解決するのです。

 

静坐し工夫三昧(くふうざんまい)になり

心の基たる心性を悟得(ごとく)するわけです。

 

 

これが即ち、坐禅の修行によって

転迷開悟(てんめいかいご)の実を挙げると

言われているのです。

 


これが禅における人間形成の順序としての

第1歩となります。

 

 

この第一歩を得るために

正脈の師家に入門し

実参実証の道を行じてまいります

 

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※ 実参実証=真正の師家に師事した本格の禅の修行のありかた

※ 見性=本心本性を徹見することで、達磨大師の【直指人心 見性成仏】から出た言葉。
※ 心=現象  心の基=性(心性 仏性 法性)  

◇立田英山著『禅と人間形成』--禅の修行と如是法から