このページは人間禅第一世総裁老師  故耕雲庵立田英山著

『数息観のすすめ』を転載し紹介してまいります。

 

耕雲庵立田英山老師

 

 

         数息観のすすめ           

 

 数息観( すうそくかん)というのは、坐禅を組んで、静かに自分の息を勘定する修養の方法であります。これは印度において古くから行われた観法で、安楽の法門なりともいわれています。それが仏教と共に支那に伝わり、さらに日本に伝わって来たものでいわば三国伝来の心身の修養鍛錬の法であります。

 

 だから、お釈迦様をはじめいやしくも宗祖とか教祖とかいわれる方々で、多少ともこの数息観を実修されなかった方はない、と申しても過言ではない位です。勿論、これは仏教そのものではありませんが、その効果が覿面( てきめん) でかつ確実であるために、自然これらの先覚者達によって、仏教の修行と併用されてきたものと思われます。

 

 私も自分の体験からして、今それを皆様におすすめ致したいと存じますが、まず数息観にはどんな効果があるか、ということからお話することに致しましょう。

 

 

   1.数息観の効果について 

 

 腹が立ったら、口に出して罵ったり手をあげて実行に移ったりする前に、自分の息を黙って三遍数えてみよ、ということがよく申されますが、これは確かに効果のあることで、大概のことなら、これで腹など立てるのはばかばかしくなってしまいます。これは一つの心気転換法に過ぎないのですが、それでさえ大した効果のあることは、実験してごらんになればすぐわかることです。

 

ましていわんや数息観は、一時的の転換法ではありません。根本から心身の調整をはかる修養法なのですから、これをやれば心身は常に安静で、つまらぬことに興奮したり、とっさの場合に度を失ったり、あわてて思わぬ怪我をしたりするようなことはなくなります。つまり機に臨み変に応じて、落ちついて適当な処置をとることができるのですから、その効果のすばらしいことは、思い半ばに過ぐるものがあるでしょう。しかし、そういった効果を抽象的に吹聴するばかりでは、にわかに信じられない方もおありでしょうから、少しくその実例を挙げてみましょう。 

 

第一に心身の安静という面から申しますと、興奮したりあわてたりしないために、その人のもつ実力を遺憾なく発揮することができます。 

 

これは野球のお話ですが、私の知人にという北九州のある大会社に勤めていた人があります。さんはその会社の野球部長をやっていましたが、そのチームは予選では度々北九州の代表になるのですが、どうもいざ鎌倉となると惜敗してしまうのです。これは選手たちが晴れの場所に出ると、平素の実力を発揮できなくなるのが大きな原因だと私は察しましたので、ある時さんに、選手たちに数息観をやらせてみたらどうか、と勧めたことがありました。

 

S さんも少しは禅の修行をやっていた人ですから、それから自分が先頭になって、合宿所で選手達と数息観をやったわけです。ところがどうでしょう、その年には見事に全国大会で優勝の栄冠を獲得することができたのです。これは数息観ばかりのせいでもありますまいが、とにかく実力を充分に発揮できたということが、あずかって大きな力があったということは言えると思います。 

 

次に、これも心身の安静の結果だと思いますが、不眠症が奇妙になおることです。不眠症にも、いろいろ原因がありましょうし、そのどれもがなおるとはいえますまいが、心配ごとで気持がたかぶったり、過労のため神経衰弱になったりして、眠れない眠れないとこぼしている人がよくおります。そんな人なら、数息観さえ実行すれば、必ずよく眠れます。

 

そんな実例ならいくらでもありますが、まれには効果があがらないとぼやく人がいます。そんな筈はないとよくよくきいてみますと、半信半疑であまり熱心に実行しない人に限られています。

 

私の大先輩に、U という下谷のある病院の副院長をしていた人がありました。この人は不眠症の患者には、こういう逆説法をしておいて、それから数息観をすすめ効果をあげていました。

 

その逆説法というのは、“ 眠らなきゃならないために、人は一生の半分を無駄に過ごしている。それを眠れないとは結構な話じゃないか。俺もそんな結構な病気にかかったら、眠ってやらないんだがなア” というのです。これは多くの人々が眠ろう眠ろうとあせるから、かえって眠れないという心理を逆用したものでしょうが、この先輩は催眠剤を絶対に与えずに、ひたすら数息観をすすめていました。

 

 

私はそんな逆説法はしませんが、こんなふうにおすすめしています。“ 眠れないとはお困りでしょう。でも、ご病気とあれば仕方がありませんね。私は医者ではないから不眠症をなおすことはできませんが、せめてあなたの身体が保つように助言させていただきたいと思います。それには数息観をおすすめする次第です。数息観は心身を安静にする第一の方法です。勿論、熟睡するにこしたことはありませんが、それがおできにならないとしたら、せめて数息観をやってごらんなさい。夢をみながら浅い眠りをとるよりは、ずっと心身の疲労が回復して、翌朝はきっと爽快をおぼえるに違いありません。もっとも数息観をやっているうちに眠ってしまったのならば、それでもよろしいですがね” と。これを聞いて実行された方は、やがて朗らかな顔色をして、感謝にこられます。

 

現に小倉のNというお医者さんも、数息観が不眠症に効果があるばかりでなく、食欲を増し便秘をなおす上にも、大いに力があることを力説しておられます。

 

 

 

次も心身の安静に関連しての病気の例ですが、これは北海道の人で、私の弟子であるHという青年の話です。彼氏は終戦後、結核療養所のベッドの上の人となりました。

 

どこの療養所でもそうのようですが、俳句や和歌は鉛筆一本と手帖一冊あれば簡単に楽しめるというところから盛んのようです。彼氏も初めは、それを熱心にやったのですが、どうも結果がよくなかったのです。あまり凝( こ) りすぎたせいもありましょうが、病勢が俄然悪化してしまったのです。

 

以下、彼氏の告白をそのままお伝えしますと、【 私はそこで断然作句をやめました。が、人間の頭というものは、何か考えていないと承知ができないとみえて、俳句から遠ざかると、とたんにつまらぬことが気になり、家のことが心配になって、かえって病気には悪いようです。かといって、凝り性の私には再び作句にもどる気にもなれなかったのです。

 

そうこうするうちに、私の命も時間の問題だというところまで来てしまいました。そこで思いました。かって先生( 私のこと) から白隠和尚の『夜船閑話』のお話を伺ったとき、数息観の効能をお聞きしたのを思いだし、どうせ死ぬなら万事を放下して、息を引きとる間際まで数息観をやってみよう。 

 

どうせそんなことで助かる命とも思えないが、心配してみたところで、怖れてみたところでどうなるものでもないのだから、せめて数息観三昧になって、死に直面したこの焦燥から抜けでたいものだと思って、それから一心になって数息観を試みました。

 

ところがどうでしょう。予期しない効果があらわれて、気持が非常に楽になったばかりではなく、病気の方も薄紙をはぐように、よくなってきました。そこで自信をえて、なおも数息観をつづけていたら、ついに医者もびっくりするような奇蹟的な退院となり、今ではこうしてピンピンしております。これは全く数息観のたまもの、ひいては先生のお蔭であると感謝している次第です】 と。さんは今、元気で小学校の先生をしています。

 

誰でもがこの青年のようにうまくいくとは限りますまいが、とにかく心身の安静ということが、病勢の消長に深い関係のあることを思えば、数息観にこれくらいの効果があっても不思議はないようです。

 

ただ、あまり数息観を狂信して、医者のいうことをきかなくなったり、現代の医術をばかにしたりしては、かえって弊害があります。病気にかかったら医者に相談し、その言に従うことは、当然でありますが、数息観がその補助の役目をはたし、効果のあることは間違いありません。

 

 

 数息観の効果は、心身の安静からくるものばかりではありません。今もHさんの話のうちに数息観三昧という言葉がありましたが、この三昧の力というものが、また大した効果のあるものです。三昧ということは、よく囲碁三昧だとか読書三昧だとかという時に使われて、誰でも知っておりましょうが、元来古代印度の言葉でSamâdhi というのを音訳したもので、三摩提とか三摩地とかとも書かれています。

 

定( じょう) とか正受( しょうじゅ) とかに意訳されて、心を一境に住して散乱させないの謂いであると解されています。そのほんとうの意味は、なかなかやかましいことで、後で定力とか道力とかのお話をする時に触れることになろうと思いますが、今は単に囲碁三昧程度の熱心さ位にお考えおき下されば、それで結構です。囲碁に熱中しておる時には、時のたつのも忘れ、暑さも忘れ、腹のすいたのも忘れ、何もかも忘れはてて、碁を打つことだけになりき切っています。ああいう状態を囲碁三昧というのでしょう。読書三昧も同じことと思いますが、この方は面白い本を読んでいる時に限られているようです。

 

つまり学校の教科書の如きに対しては、なかなかそうはいきません。が、もし教科書に対しても読書三昧になれたら、成績はぐんぐんよくなること請合いです。ですから、平素数息観をやって三昧の力を養っておきさえすれば、その力を学業の方へ応用して、たとえ面白くない教科書に対してでも、読書三昧になれようというものです。

 

 

私は25年間教壇に立っていた経験がありますが、その間幾多の学生諸君に数息観をすすめて、その成績を向上せしめております。それはその筈です。私にいわせれば、多くの学生諸君は机の前に坐って本を開いてはいるものの、ほんとうの意味における勉強はしていないのです。遊び半分といっては語弊があるかも知れませんが、三昧の力を養っていないから、雑念や妄念の合間合間に、本に書いてある事柄を考えているようなものです。それでは能率のあがる筈がありません。

 

聖人も【心ここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞こえず】と言っています。ただ机に囓りついているばかりが勉強ではありません。ところが三昧の力を養っておくと、心を一境に住し散乱させないのですから、つまり心ここに在るわけですから読めばほんとうに読むことになり、考えればほんとうに考えることになります。

 

これで成績が向上しなければ、しないほうがどうかしていると言いたい位です。学生でない方には学業の話は興味がないかも知れませんが、三昧の効果は学業の上ばかりではありません。いかなる仕事でも、その能率を上げる上に効果があります。とくに喧噪な雰囲気の中にあって、その場の支配を受けやすいような仕事に従事している人にとっては、その効果が覿面( てきめん)です。

 

私の知っているという大阪の株屋さんは、数息観さえしっかりやっておけば、損することは絶対にないと言っています。勝負ごとには、あせりは禁物です。こんな秘法を公開すると、パチンコ屋の親爺さんに営業妨害で訴えられるかも知れませんが。

 

 

また、こんな効果もあります。芸術や武道において、格段の進歩をみたの、忽然と秘術を感得したのということを聞いております。これなども三昧の力を養えたら、さこそと肯ける次第です。

 

山岡鉄舟居士が『洞山の五位』という公案を悟って後に、無刀流を創始したという話はあまりにも有名でありますが、現に警視庁の師範をやっておられる剣道八段のO 氏が、若い者にしきりに“ 坐れ坐れ” と奨励しているのをみても、三昧の力は芸道・武道の奥義にも通ずるものがあることがわかります。

 

 

また、これは心身の安静とか三昧の力とかに関係がないこともありませんが、とくに自分の心を自分の思う方向に向けるという面において、数息観はあずかって力があります。

 

早い話が、何もない応接室に新聞一枚持たずに、長い時間待たされたと想像してごらんなさい。大概の者ならいらいらして来て、ついには癇癪を起してしまいます。こんな場合に数息観をやりながら待っていると、時間が無駄にならないばかりか、時のたつのも忘れています。

 

それでもまだ主人公が出てこないなら、こんな時こそ常々考えたいと思っていたことをじっくり考える時です。冷静にもなっているし、他から煩わされることもないので、案外うまい考が浮かびます。さらにこれが刑務所の独房へでも入れられた場合と仮定すると、問題がいよいよ重大になってきます。

 

応接間はいくら待たされても長くて半日、むしゃくしゃした顔で面接したために話がうまく運ばなかったで済みますが、刑務所ではそうはいきません。私の親しく願っていた人で、中国地方のある市の市長をしておられたMという方がありました。この人は選挙か何かのことで、未決で独房生活をやった経験の持主です。

 

御縁があって私の室内にも参禅してきたことがありますが、その経験談によりますと、数息観が非常に役にたったと述懐しておられます。初めの間は他を恨み、制度の不備を憤慨して、寝ても覚めてもそのことばかり、気も狂いそうであったということですが、実際見るからに温厚そうな老人でしたから、さもあったろうと思われます。

 

フトしたことから、「 こんなことではいけない、この期間を何か有益な面に利用してやろう 」と、さしずめ実行できる数息観を徹底的に試みることに決心されたそうです。

 

その後日の告白によると、「数息観によって落ち着きを取り戻してからというものは、独房生活も人生を深く掘り下げて考えるにはよい道場となりました。負け惜しみじゃアないが、配所の月もまた風流なものになりましたよ」と。

 

こんなお話ばかりしていたのでは、いくらでも実例があり際限もないことですから、後は皆様の今後の実習によって、生きた実例をぞくぞく生み出して戴くことにして、次にその実習についてお話をすることに致しましょう。

 

       《2.座禅の仕方につづく》